喜多方で桶屋を継いで60年。指先に感覚として覚えるまでに
戦地から復員して、桶づくりを継いだのが21歳のときだから、桶屋としてもう60年になるね。祖父、父親、そして私で三代目。桶職人の家系だけども、私は8人兄弟の4番目で、桶屋を継ごうなんて思ってなかったんだよ。でも上の兄たちは戦争の前に就職していて、戦後もそのまま会社に戻ったから桶屋は継げない。下の兄弟はまだ幼かったし、年齢的に私しかいなかった。最初は嫌で、戦後すぐ北海道の警察予備隊に入ったんだけど、本家の伯父さんに「お前しか継ぐものがおらん」と、半ば強制的に連れ戻されましてね。それからは覚悟を決めて、桶づくりひと筋というわけです。
桶職人として一人前と認められるには10年かかります。小さな桶からはじめるわけだけど、父親はあっという間に仕上げてしまうのに、同じ手順で言われた通りに作業をしても、最初の頃はぜんぜんうまくいかなかった。難しいのは側板を隙間なくきっちり揃えて、歪みのない円形に仕上げること。当たり前のようだけど、側板の一枚を少し削り間違えただけでも、仕上がりの形はおかしくなってしまうんでね。これは何度も繰り返して、指先に感覚として覚えさせるしかない。小さな桶から少しずつ大きなものをつくらせてもらえるようになり、風呂桶がつくれるようになれば一人前。そこまでに10年はかかる。
戦後間もない頃、喜多方にあった桶屋は約30軒。当時はふだんの生活に欠かせない道具だったし、近隣農家の需要もあって、どこも忙しくしていたっけね。菊地風呂桶店は祖父の代から旦那場の仕事をさせてもらってたんです。旦那場というのは、味噌、醤油、酒など醸造関係の桶の仕事。以前は喜多方にも20軒ほどの造り酒屋があって、そのなかの多くをうちでやらせていただきました。旦那場の仕事は特殊だから、誰にでもできるもんじゃない。例えば大きな仕込み桶の組み方、箍(タガ)の締め方は経験を積んだ職人でなければわからないし、桶屋のなかでも技術的に最も優れた家が、その土地の旦那場の仕事を請け負っていたんだね。
時代は変わって、最後の職人に。
だから少しでも長くつくり続けたい。
これは父親に聞いた話だけど、昭和のはじめ頃の日当は、桶屋が1円20銭、大工が1円、左官が50銭。桶屋は職人のなかでも、それくらい地位が高かったんだよ。昭和20年代から30年代の半ばまで、それはそれは忙しかった。あちこちから依頼があって、父親と私、その頃雇っていた職人さんたちで手分けをしても、追いつかないくらいだった。
ずっと忙しくしていたけど、様子が変わったのは30年代後半から。造り酒屋はホーローやステンレスのタンクを仕込みに使うようになり、一般家庭でもプラスチックの桶やたらいが普及して、木桶の需要がどんどん少なくなっていったんです。そっちのほうが便利だから仕方ないと思いながら、自分たちがつくった桶が使われなくなるのは、そりゃ寂しかったさ。職人気質を通したいと思っても、時代がそれを許してくれないのなら仕方ない。30軒あった桶屋はどんどん姿を消していって、残ったのはここだけです。人を雇う余裕もないから、喜多方では私が最後の桶職人ということになるね。いま80歳ですが、少しでも長く桶づくりを続けていこうと、なんとか頑張っていますよ。 (後編に続く) |